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クラシック音楽を中心にしたポスト現代音楽のためのブログ


by ralatalk

ペッテションの交響曲第5番

交響曲の第2番は、第1番が放棄されているために実質的な1番と考えてよいのですが、既にこの作品で強烈な個性を発揮しており、今後は、この曲をベースにして発展してくると考えてはいるのですが、第3番と第4番を聴く限りにおいては、少しマンネリ、息切れしているかなあとも余裕で考えておりました。

しかしながら、この交響曲第5番については、ベートーヴェン、マーラー、ブルックナー、スクリャービン、シベリウス、ショスタコの各第5交響曲がそうであったように、次のステージへと大進化をとげています。

かって、文豪ゲーテが、ベートーヴェンの第5番を聴いて「これはもはや音楽を越えている」と感嘆したとのことですが、この曲は、「これはもはや芸術を越えている」という感じです。ちょっと今までに聴いたことがない、やばい系の音楽です。



通常の芸術音楽の場合だと、人間の様々の感情をより普遍的なものに昇華し、外に放射するという感じで作られているのがほとんでなんですが、ペッテションの場合は、人間の様々なマイナスの感情をブラックホールの中に閉じ込めて、その巨大な重力で他を押しつぶし崩壊させていくというような感じです。さすがにブラックホールが相手では、人に抵抗するすべがありません。

比較するとすれば、マーラーの第6交響曲が雰囲気的に近いのですけど、マーラーのように英雄をきどる個人ではなく、ペッテションの場合、一人の市民として、とても低い視点で描かれていることが、ポイントです。

マーラーの場合だと英雄というのは特別な人なので、
「まさか、ハンマーで倒されるのは、私じゃないよね。本日のハンマーはどんな大きな音がするのかなあ。」

と余裕をぶっこいて聴くことができます。

ショスタコの場合は、一人の市民として、低い視点で描かれてはいますが、自分だけは安全な場所にいて悲しみを堪えつつも眺めているという感じ。

ペッテンションは、まさに自分に降り掛ろうとする不安の視点。

「親が癌で亡くなったが、俺は大丈夫なのか」、
「今日、近くで交通事故が起こったが、うちの子供は大丈夫か。」
「今日大きな地震があったが、親、兄弟は無事なのだろうか。」
「今、腹がとても痛いが、電車が止まったらどうしよう。」

というような漠然とした不安。もしかしたら本当にそうなっしまうかもという恐怖。こうした経験は誰でもあるでしょうけど、こうした不安や恐怖を聴衆に共有をかけて、作品に共感させるというとんでもないことをやっている。しかも、散々脅しておいて、たまにやさしい言葉をかけるすべも心得ているので、余計にひきつけられるという人もいるでしょうね。

おそるべし、ペッテションのマインドコントロール戦術。

マインド・コントロール戦術というと、人を騙しているような作為の部分が見え隠れするのですが、ペッテションは自らが経験したものを、ありのままにうそ偽りがなく書いているので、
「君、君。そこ、嘘だよね?」
という指摘する余裕も聴衆に与えない。
「一蓮托生。40分間の地獄にいっしょに付き合ってもらうぞ。うひひ~。」
という感じで、背中に汗が.....。

これってコンサート・ホールでやったらどんな感じなんしょうかね。

他にこの手の底知れぬ恐怖を誘う音楽は、三善晃やペンデレツキ、リゲティ、ノーノの前衛音楽もあるんですけど、彼らの場合、
「俺様は天才だ。どうだい僕の音楽は!」
という芸術家として健全な意識で書いてくれているので、そこに隙間を見出して、「ほう、なかなかやりおるのお〜」という余裕で聴いていられます。それに、前衛といえども形式は感じられるので、割と予測しながら聴きやすい。でもペッテションの場合、形式なんてあるのかというくらい予測不能の方向に曲が進むのでこれがまた不安を増幅する。暗闇の中で殺人者に追われて、出口を求めて逃げ惑うように。
形式があるとしたら、それは不安というエモーションを素材にしたパッサカリアというものでしょう。

↑こんないい加減なことを言っていてよいのか。楽曲分析はすべしとは思ってはいますが。

まだ、全曲を制覇したわけではないのですが、調性音楽にして、前衛をも軽く凌駕してしまえる程のブラック創作エネルギーの絶大さ!。やはり、超弩級のS級作曲家であることは間違いないですね。
by ralatalk | 2007-04-16 18:17 | ペッテション